こんばんは。
はるかです。
CLANNADというゲーム(アニメ)をご存知でしょうか?
私はアニメから知りました。
アニメも2クールで2期分なのでかなりのボリュームです。
2chでは「CLANNADは人生」という有名な格言が登場しました。
そんな人気作品です。
そのエンディング近くで登場するこの「小さな手のひら」
1度聞くと知らない人でもその歌に感動するかもしれません。
そして、Googleを使い検索してみたのですが、歌詞を詳細に解説しているサイトは見つかりませんでした。
なら、私が残しておこうと思った訳です。
まず、聞いてみますか?
CLANNAD 小さな手のひら
今回は、この歌詞を完全解説・考察してみます。
それでは、解説します。
最初に結論から行きますね。
この歌は何を歌っているかわかりますか?
実は、幻想世界を歌っているのです。
幻想世界とは何か?それは1話から説明が入ります。
何も生まれず何も死なない、時間の概念が無い・・・なぜ朋也がそれを知っているのか突っ込みどころ満載です。しかも、そう言いつつ、時間は流れているように見えるし、朋也がまさに生まれようとしてます。
そんな矛盾ばかりから始まる幻想世界です。
でも朋也が時間の概念が無いと言ったのは、自分の住んでいた現実世界からみた時間の概念が異なっていたので、そう見えたという解釈が可能です。恐らくそうなのでしょう。
では、幻想世界の時間とは何なのでしょうか?
私は、朋也の一生=汐の一生(一部渚の一生)つまり「僕らの人生」と思いました。
そしてその一生には、季節が付けられています。
夏から始まり秋、冬、春と季節の変遷を繰り返し、春になると消滅してこの世からいなくなる(死ぬ)という訳です。
歌詞の解説に入る前の知識として
・幻想世界を歌っている歌である
・夏秋冬春と流れていく
・僕ら(朋也、渚、汐)が生まれて死んでいく、つまり人生を投射している
という感じです。
遠くで遠くで揺れてる稲穂の海
稲穂と言えば、季語は秋です。
ですが、麻枝さんは俳句や短歌の意味で使っているわけでは無いです。
単純に初夏の「青々とした」稲穂が揺れているのです。
それを海に例えているのですね。
例えば、ナウシカの「そのもの金色の野に降り立つべし」は、秋の稲穂ですね。
なので、この歌は夏から始まります。つまり人生の始まりなのです。
帆を上げ帆を上げ目指した思い出へと
麻枝さんのファンなら、この帆を上げが
・穂を上げ
・帆を上げ
・For Again
という3つの意味があることは容易に気付くでしょう。
とくに最後の日本語と英語を組み合わせた「空耳」は麻枝さん特有の文化ですね。
始まった人生が帆を上げて、稲穂の海を航海して、目的に向かって動き出したことを意味します。
では、目的とはなんでしょうか?
朋也はアニメ・ゲーム中で、人々の「思い」である「光の玉」を集めます。
その集める行為自体が、目的なのですね。
僕らは今日までの悲しいこと全部覚えてるか、忘れたか
これは幻想世界で、汐が朋也に「悲しい事を思いだした?」と聞いている部分ですね。
アニメCLANNADより引用 以降アニメ画像は全てCLANNAD・AfterStoryより引用
この時、朋也は現実世界で渚が死んでしまった事を思い出しました。
そういった悲しい出来事の事をすべて覚えているか?と問うているわけです。
もちろん、この語彙には汐が死んでしまった事も入ってる訳です。
でも朋也は記憶がよどんでいるので、思い出したか、忘れたかというような曖昧な表現にされています。
小さな手にもいつからか僕ら追い越してく強さ
これは、単純に子供は成長すると簡単に親を抜き越してしまう強さを表しています。
子供という生命の強さ、また子供を思う親の気持ちが入っていると思います。
アニメでは、菜の花を駆け巡る汐の姿が印象的でしたね。
菜の花畑を駆け抜ける汐
熟れた葡萄の下泣いてた日から歩いた
直接このシーンは登場しませんでした。
でもここから、季節は秋に移ります。葡萄の季節ですね。
葡萄の木の下で泣いていたのは、汐ですね。きっと他愛の無い事で泣いてしまったのでしょう。
しかし、そんな汐が、朋也と渚がビックリするスピードで大人になっていくのを感じたのでしょう。
小さな手でも離れても僕らはこの道ゆくんだ
これも先ほどの解説と同じです。でも「僕ら」を乗り越えていく意味が加味されています。また汐とは、「必ず」離ればなれになる事を示唆しています。子供は親元を離れ独立して生きていきます。そのことを言っているのです。ただ、実は、もう一つの悲しい意味も包含しています。それは次の歌詞で明らかになります。
いつかくる日は一番の思い出をしまって
いつか来る日というのは、何でしょうか?
これは、朋也が死ぬ日、渚が死ぬ日、汐が死ぬ日、つまり「僕らが」が死ぬ日を表しています。
「一番の思い出」というのが、最初の歌詞の「今日までの悲しい事を全部」なんですね。
言い換えると、僕らは死んでも一番の思い出を保存(仕舞って)次の人生に引き継ぐ事ができると言いたいわけです。
すこし切ない感じです。興ざめする例えを用いると、ゲームのセーブの概念とリスタートした概念を併せ持っている訳です。
セーブしてもう一度やり直す場合、当然ですがプレイヤーは前の記憶を持っています。ですので悲しい事にならないようにします。それを表しているのですね。
でも、ゲームのセーブとやり直しなどと解説してしまうと、この壮大な歌がちっぽけになるので、ここは大人の解釈で、人生が終わるときでも、一番の思いでは決して色あせる事無く保存しておけるという意味が込められています。
季節は移り もう冷たい風が
これは、冬の到来を意味します。
幻想世界の冬の到来
冷たい風の「風」は風子の風だったりもします。
人生も終盤に近づいている感じです。
包まれて眠れ あの春の歌の中で
包まれて眠れというのは、幻想世界の少女が真冬の雪の下で目をつぶって眠ってしまっている事を表しています。
だんご大家族に包まれて眠る少女
「あの春の歌」なのですが、これはこの作品を知っている人なら容易に気付くことができるでしょう。
そうです「だんご大家族」です。
幻想世界では、世界の終わりに「この歌」を歌う事になっています。
これは1期の渚の「演劇」でも明らかになっていますね。
さて、幻想世界にも遂に春(終わりの時)が見えてきました。
幻想世界の時間は、始まりは終わり、終わりは始まりという逆転的な世界です。
2期のOPである「時を刻む唄」でも冒頭から
「落ちていく砂時計ばかり見ているよ」
「逆さまにすれば、ほらまた始まるよ」
という歌詞があります。
なので、通常の四季では始まりである「春」が終わりなのですね。
春(終わり、崩壊)が見えてきた幻想世界
リフレインは割愛します。
濡れた頬にはどれだけの笑顔が映った
ここは麻枝さんが、一番言いたかった所では無いかと思います。
濡れたほほ、つまり「悲しみ」なのですが、これが「喜び」と等価では無いと主張しているのです。
つまり、悲しみが多いほど喜びはそれ以上に多くなるという事を表しているのです。
そしてくる日は僕らも思い出を仕舞った
既に解説しているとおりですが、そしてくる日は、僕らが死ぬときです。
「やがて来る」「そして来る」人間が避けて通れないものを言葉にしています。
死ぬ前には、沢山の喜びが詰まった思い出を永遠に保存できる訳なのですね。
やがて来る日は 新しい季節を開いた
私が一貫して主張している部分が最後に登場します。
やがて来る日=死、終わりなのですが、それは同時に新しい季節、つまり春=次の人生を開いたのですね。
人生の終わりに一番の思い出を仕舞って、次の人生でそれを開く、素晴らしい輪廻転生です。
と言うことで、涙無くては語れないCLANNADの小さなてのひらを解説してみました。
<追記2016/08/06>
ひとつ書き忘れていることがありました。
朋也がどのような課程でハッピーエンドを手に入れたかです。
以下は、時系列です。
<現実世界>
01.渚と出会う
02.結婚する
03.汐が生まれ渚が死ぬ
04.汐が死ぬ
05.朋也が死ぬ
<幻想世界>
06.朋也がロボットに転生して生まれる(夏)
07.少女と過ごす
08.春になり少女も朋也も消える
<現実世界>
09.渚と出会う
10.結婚する
11.汐が生まれる
ということで、朋也は光の玉を集めることにより、
奇跡(幻想世界に転生)が起きて渚を救うことができたのです。
もちろんパラレルワールド設定なので、これ以外の世界も無数に存在します。
ということで、とっても素敵な歌&歌詞でしたね。
はるかです。
CLANNADというゲーム(アニメ)をご存知でしょうか?
私はアニメから知りました。
アニメも2クールで2期分なのでかなりのボリュームです。
2chでは「CLANNADは人生」という有名な格言が登場しました。
そんな人気作品です。
そのエンディング近くで登場するこの「小さな手のひら」
1度聞くと知らない人でもその歌に感動するかもしれません。
そして、Googleを使い検索してみたのですが、歌詞を詳細に解説しているサイトは見つかりませんでした。
なら、私が残しておこうと思った訳です。
まず、聞いてみますか?
CLANNAD 小さな手のひら
それでは、解説します。
最初に結論から行きますね。
この歌は何を歌っているかわかりますか?
実は、幻想世界を歌っているのです。
幻想世界とは何か?それは1話から説明が入ります。
何も生まれず何も死なない、時間の概念が無い・・・なぜ朋也がそれを知っているのか突っ込みどころ満載です。しかも、そう言いつつ、時間は流れているように見えるし、朋也がまさに生まれようとしてます。
そんな矛盾ばかりから始まる幻想世界です。
でも朋也が時間の概念が無いと言ったのは、自分の住んでいた現実世界からみた時間の概念が異なっていたので、そう見えたという解釈が可能です。恐らくそうなのでしょう。
では、幻想世界の時間とは何なのでしょうか?
私は、朋也の一生=汐の一生(一部渚の一生)つまり「僕らの人生」と思いました。
そしてその一生には、季節が付けられています。
夏から始まり秋、冬、春と季節の変遷を繰り返し、春になると消滅してこの世からいなくなる(死ぬ)という訳です。
歌詞の解説に入る前の知識として
・幻想世界を歌っている歌である
・夏秋冬春と流れていく
・僕ら(朋也、渚、汐)が生まれて死んでいく、つまり人生を投射している
という感じです。
遠くで遠くで揺れてる稲穂の海
稲穂と言えば、季語は秋です。
ですが、麻枝さんは俳句や短歌の意味で使っているわけでは無いです。
単純に初夏の「青々とした」稲穂が揺れているのです。
それを海に例えているのですね。
例えば、ナウシカの「そのもの金色の野に降り立つべし」は、秋の稲穂ですね。
なので、この歌は夏から始まります。つまり人生の始まりなのです。
帆を上げ帆を上げ目指した思い出へと
麻枝さんのファンなら、この帆を上げが
・穂を上げ
・帆を上げ
・For Again
という3つの意味があることは容易に気付くでしょう。
とくに最後の日本語と英語を組み合わせた「空耳」は麻枝さん特有の文化ですね。
始まった人生が帆を上げて、稲穂の海を航海して、目的に向かって動き出したことを意味します。
では、目的とはなんでしょうか?
朋也はアニメ・ゲーム中で、人々の「思い」である「光の玉」を集めます。
その集める行為自体が、目的なのですね。
僕らは今日までの悲しいこと全部覚えてるか、忘れたか
これは幻想世界で、汐が朋也に「悲しい事を思いだした?」と聞いている部分ですね。
アニメCLANNADより引用 以降アニメ画像は全てCLANNAD・AfterStoryより引用
この時、朋也は現実世界で渚が死んでしまった事を思い出しました。
そういった悲しい出来事の事をすべて覚えているか?と問うているわけです。
もちろん、この語彙には汐が死んでしまった事も入ってる訳です。
でも朋也は記憶がよどんでいるので、思い出したか、忘れたかというような曖昧な表現にされています。
小さな手にもいつからか僕ら追い越してく強さ
これは、単純に子供は成長すると簡単に親を抜き越してしまう強さを表しています。
子供という生命の強さ、また子供を思う親の気持ちが入っていると思います。
アニメでは、菜の花を駆け巡る汐の姿が印象的でしたね。
菜の花畑を駆け抜ける汐
熟れた葡萄の下泣いてた日から歩いた
直接このシーンは登場しませんでした。
でもここから、季節は秋に移ります。葡萄の季節ですね。
葡萄の木の下で泣いていたのは、汐ですね。きっと他愛の無い事で泣いてしまったのでしょう。
しかし、そんな汐が、朋也と渚がビックリするスピードで大人になっていくのを感じたのでしょう。
小さな手でも離れても僕らはこの道ゆくんだ
これも先ほどの解説と同じです。でも「僕ら」を乗り越えていく意味が加味されています。また汐とは、「必ず」離ればなれになる事を示唆しています。子供は親元を離れ独立して生きていきます。そのことを言っているのです。ただ、実は、もう一つの悲しい意味も包含しています。それは次の歌詞で明らかになります。
いつかくる日は一番の思い出をしまって
いつか来る日というのは、何でしょうか?
これは、朋也が死ぬ日、渚が死ぬ日、汐が死ぬ日、つまり「僕らが」が死ぬ日を表しています。
「一番の思い出」というのが、最初の歌詞の「今日までの悲しい事を全部」なんですね。
言い換えると、僕らは死んでも一番の思い出を保存(仕舞って)次の人生に引き継ぐ事ができると言いたいわけです。
すこし切ない感じです。興ざめする例えを用いると、ゲームのセーブの概念とリスタートした概念を併せ持っている訳です。
セーブしてもう一度やり直す場合、当然ですがプレイヤーは前の記憶を持っています。ですので悲しい事にならないようにします。それを表しているのですね。
でも、ゲームのセーブとやり直しなどと解説してしまうと、この壮大な歌がちっぽけになるので、ここは大人の解釈で、人生が終わるときでも、一番の思いでは決して色あせる事無く保存しておけるという意味が込められています。
季節は移り もう冷たい風が
これは、冬の到来を意味します。
幻想世界の冬の到来
冷たい風の「風」は風子の風だったりもします。
人生も終盤に近づいている感じです。
包まれて眠れ あの春の歌の中で
包まれて眠れというのは、幻想世界の少女が真冬の雪の下で目をつぶって眠ってしまっている事を表しています。
だんご大家族に包まれて眠る少女
「あの春の歌」なのですが、これはこの作品を知っている人なら容易に気付くことができるでしょう。
そうです「だんご大家族」です。
幻想世界では、世界の終わりに「この歌」を歌う事になっています。
これは1期の渚の「演劇」でも明らかになっていますね。
さて、幻想世界にも遂に春(終わりの時)が見えてきました。
幻想世界の時間は、始まりは終わり、終わりは始まりという逆転的な世界です。
2期のOPである「時を刻む唄」でも冒頭から
「落ちていく砂時計ばかり見ているよ」
「逆さまにすれば、ほらまた始まるよ」
という歌詞があります。
なので、通常の四季では始まりである「春」が終わりなのですね。
春(終わり、崩壊)が見えてきた幻想世界
リフレインは割愛します。
濡れた頬にはどれだけの笑顔が映った
ここは麻枝さんが、一番言いたかった所では無いかと思います。
濡れたほほ、つまり「悲しみ」なのですが、これが「喜び」と等価では無いと主張しているのです。
つまり、悲しみが多いほど喜びはそれ以上に多くなるという事を表しているのです。
そしてくる日は僕らも思い出を仕舞った
既に解説しているとおりですが、そしてくる日は、僕らが死ぬときです。
「やがて来る」「そして来る」人間が避けて通れないものを言葉にしています。
死ぬ前には、沢山の喜びが詰まった思い出を永遠に保存できる訳なのですね。
やがて来る日は 新しい季節を開いた
私が一貫して主張している部分が最後に登場します。
やがて来る日=死、終わりなのですが、それは同時に新しい季節、つまり春=次の人生を開いたのですね。
人生の終わりに一番の思い出を仕舞って、次の人生でそれを開く、素晴らしい輪廻転生です。
と言うことで、涙無くては語れないCLANNADの小さなてのひらを解説してみました。
<追記2016/08/06>
ひとつ書き忘れていることがありました。
朋也がどのような課程でハッピーエンドを手に入れたかです。
以下は、時系列です。
<現実世界>
01.渚と出会う
02.結婚する
03.汐が生まれ渚が死ぬ
04.汐が死ぬ
05.朋也が死ぬ
<幻想世界>
06.朋也がロボットに転生して生まれる(夏)
07.少女と過ごす
08.春になり少女も朋也も消える
<現実世界>
09.渚と出会う
10.結婚する
11.汐が生まれる
ということで、朋也は光の玉を集めることにより、
奇跡(幻想世界に転生)が起きて渚を救うことができたのです。
もちろんパラレルワールド設定なので、これ以外の世界も無数に存在します。
CLANNAD 小さな手のひら
歌手:riya
作詞:麻枝 准
作曲:麻枝 准
遠くで 遠くで 揺れてる稲穂の海
帆上げ 帆上げ 目指した想い出へと
僕らは 今日までの 悲しいこと全部
覚えてるか 忘れたか
小さな手にも いつからか
僕ら 追い越してく強さ
熟れた葡萄の下 泣いてた日から 歩いた
小さな手でも 離れても
僕らは この道 行くんだ
いつか来る日は 一番の想い出をしまって
季節は移り もう冷たい風が
包まれて眠れ あの春の歌の中で
小さな手にも いつからか
僕ら 追い越してく強さ
濡れた頬には どれだけの笑顔が映った?
小さな手でも 離れても
僕らは この道 行くんだ
そして 来る日は 僕らも想い出をしまった
小さな手でも いつの日か
僕ら 追い越して行くんだ
やがて 来る日は 新しい季節を開いた
歌手:riya
作詞:麻枝 准
作曲:麻枝 准
遠くで 遠くで 揺れてる稲穂の海
帆上げ 帆上げ 目指した想い出へと
僕らは 今日までの 悲しいこと全部
覚えてるか 忘れたか
小さな手にも いつからか
僕ら 追い越してく強さ
熟れた葡萄の下 泣いてた日から 歩いた
小さな手でも 離れても
僕らは この道 行くんだ
いつか来る日は 一番の想い出をしまって
季節は移り もう冷たい風が
包まれて眠れ あの春の歌の中で
小さな手にも いつからか
僕ら 追い越してく強さ
濡れた頬には どれだけの笑顔が映った?
小さな手でも 離れても
僕らは この道 行くんだ
そして 来る日は 僕らも想い出をしまった
小さな手でも いつの日か
僕ら 追い越して行くんだ
やがて 来る日は 新しい季節を開いた
ということで、とっても素敵な歌&歌詞でしたね。
コメント一覧
もともとミュージックコンポーザーとしてゲームはいりたかったそうですが、当時実績が無い人間をゲーム音楽で使ってくれるところが見つからず、シナリオで応募してゲーム会社に入ったそうです。さらに自分が請け負える範囲が最初から大きく取れるのであえてあまり大きくない会社に入ったとのこと。
結局この選択がシナリオと世界観に絶妙に融合した、この人の音楽や歌を作り出すことになったわけですね。
そういえばこの曲の前奏の部分にだんご大家族が入ってるw(逆なのかな?だんご大家族がココから引用して作ったのだろうか?)
きっとKeyのこういったゲームやアニメはほとんどそうなのだろうと思います。
解釈が難解なものほど解き明かすのが楽しいですが、どれも正解は無いので自己満足の世界です。
だんご大家族はゲームの後にできたと思います。そのあと映画版のだんご大家族もあったと思います。
調べてみたら、ゲームが2004年でだんご大家族は2007年でした。
原曲は渚のテーマなので、納得がいくかんじです。
小さな手のひらは、汐(ボーカル曲は木漏れ日)のテーマの返答歌になっているフシも見えます。
>あなた自身の花を 見つけて 進め進め未来へと
>もう会えなくなるわけじゃないんだ
>ただ大海原にこぎ出していくだけ 船はいく さあ手をふって
と、小さなてのひらのとの関連性がみえています。
for againの意味も分からん。
素晴らしい解釈をありがとう!!
このような結論に至ったのは幻想世界にもはじまりと終わりがあって輪廻しているなあと思ったからでした。
「そしてくる日」「やがて来る日」はちょっと悲しくなりました。
記事の内容は良かったと思います。
ご指摘ありがとうございます。
修正しました。
riyaさん他ファンの方には、大変失礼したコンテンツを提供していたことをお詫びます。
ぼくの感じているものが、より色を鮮やかにしたと思います。
赤の彼岸花がぼくの人生に描写されるまで、CLANNADは色あせることなく、人生を稔りあるものにしてくれる作品です。
秋の彼岸花といえば、美佐枝さんと志麻のストーリーを思い出しました。
このお話もとても切なかったです。「想い」には動物も人間も関係無いという表現が良かったです。
幻想世界を唄っているというのは、説得力がありました。
幻想世界そのものを唄っているって、気付くのは結構難しいと思います。
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